「増補版 ニーチェ 第一部」 西尾幹二

 しかしショーペンハウアーの価値、とりわけ後世の哲学に及ぼした意義は、哲学上の学説に対する客観的・学問的興味というようなことではおそらくなかった。

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 そして、かれは世界をただ疑い、否定しただけではない。ニーチェが感嘆したように、世界と人間の赤裸な真相を究明することに対し彼は積極的な勇気を持っていた。と同時に、独断であれ何であれ、救済を烈しく希求する意欲をもっていた。余談だが、ショーペンハウアーの哲学は現代の世界にますます意義を増してきつつあるように思える。自然破壊、地上の生存の可能性、盲目的な意志に駆られていく文明の荒廃が、すでに百二十年も前に、根本のところでしっかり捉えられているからである。

 ニーチェはショーペンハウアーの哲学の理論にではなく、理論の奥にあり、それを支えている人間に打たれたのであった。

「ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く」 梅田孝太

自分で考えること、それが何かを考えるときに最も重要なことなのだ。「読者」でいることに慣れすぎているわたしたちは、すぐに最短距離で他人の思想を学ぼうとしてしまう。だが、自分の言葉で表現できるようになる瞬間が来るまで、花が咲くのを春まで待つように、時間をかけたほうがよい。哲学的な思索は「急がば回れ」だということだ。でなければ、本当に何かをわかったことにはならない。視点を変えてみれば、ショーペンハウアーが書いたものを私たちがありがたがるのはおかしいということにもなるだろう。これがおかしいと思えてこそ、ショーペンハウアーが言っていることがわたしたちに伝わったということになる。本なんて読まずに、自分で考えたほうがいい。こうしたことを明け透けに言ってのける遠慮のなさにも、ショーペンハウアーの文章の魅力がある。

「ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く」 梅田孝太

 真の哲学は、世界をじっと見すえたときの驚きから始まる。ショーペンハウアーによれば、あるひとを哲学者にするのは、読書や学習ではない。現実の世界をじっと見すえ、「なんだ、これは!いったいどうなっているんだ!」と驚き、その混乱をどうにか切り抜けようとするとき、ひとは哲学者になるのだという。

「日本人の歴史意識 -「世間」という視角から-」 阿部謹也

 歴史を単に時間の流れと見なすような安易な歴史観に親鸞は痛烈な一撃を加えているのである。いうまでもなく歴史は時間の流れの中にあるが、その中でどのように人が生きているのか、それを観察する人が自らはどのように生きるべきかを問う姿勢の中に歴史を書く理由がある。特に権力者達に対してどのような対応をすべきかという点に歴史の根源があるというべきであろう。

「新版 集中講義! アメリカ現代思想」 仲正昌樹

「...自由を犠牲にして手にする保障を激賞する、知的指導者たちの現在の流行ほど致命的なものはない。われわれは自由というものが一定の価格を払って初めて得られるものであるということ、そして個人としてのわれわれが自由を保持するためには、きびしい物質的犠牲を払う用意をしなければならないということに、目を開くことを虚心に再認識する必要がある。」(『隷従への道 (改版)』)

 ハイエクは経済学者であるが、単に市場での競争が計画よりも効率的であるという理由から市場を擁護しているわけではない。市場での厳しい競争に曝されることによって、自分の意志によって自分の生活を設計し、自分の行動に対して責任を取る各人の能力が高まっていくことも重視している。

「自省録」 マルクス・アウレーリウス (神谷美恵子 訳)

 遠からず君は何者でもなくなり、いずこにもいなくなることを考えよ。また君の現在見る人びとも、現在生きている人びとも同様である。すべては生来変化し、変形し、消滅すべくできている。それは他のものがつぎつぎに生まれ来るためである。

 すべては主観にすぎないことを思主観は君の力え。そのでどうにでもなるのだ。したがって君の意のままに主観を除去するがよい。するとあたかも岬をまわった船のごとく眼前にあらわれるのは、見よ、凪と、まったき静けさと、波もなき入江。

「善悪の彼岸」 ニーチェ (中山元 訳)

[しかしわたしたちは反対に]非真理が生の条件であることを認めるべきなのだ。もちろんこれは、わたしたちに馴染みの価値評価の感情に抵抗しようとする危険な営みだ。だからこのようなことを敢えてする哲学というものは、そのことだけで、すでに善悪の彼岸にあるのである。